恵庭土地改良区のあゆみ
 この地方における農業経営の始まりは、明治4年大阪の人“中山久蔵”氏がいばらの道を切り拓いて畑地を造成し、明治6年には水稲10アールを栽培したのに始まる。稲作の可能なことがわかり、その後逐次農家の移住する者が多く、水田の造成を試みる者が入植し、米作の確定は移住者の定着心を強めた。
 これらの水田は、主として漁川・茂漁川・島松川・柏木川・ユカンボシ川及びその他の小河川より引水したが、組織的に組合を作り水利権を設定した者はなかった。明治24年頃より各地に組合を組織し、水利権の設定出願する者が多くなり、年々水田を造成する人が増加し、恵庭市内のみでも大正4年には1,100ヘクタール、昭和元年には2,300ヘクタール、昭和20年における造田面積は2,500ヘクタールに及んだ。これらの水利権取得に伴い、水系毎に用水組合が設立され、開田は増加の一途をたどり、水量配分調節も年々困難となり、昭和21年3月31日水利権の統合と土地改良及びかんがい施設の改良工事を計画的に行うために、土功組合が設立認可された。
 その後昭和24年6月土地改良法制定に伴い、昭和25年12月12日北組第13号により組織変更の許可を受け、恵庭土地改良区となったものである。
   
「寒冷地稲作ここに始まる」の碑  寒冷地稲作の碑とクラーク博士の碑

 
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